橘井堂 佐野
2021年9月10日

李麗仙さんのこと

李麗仙さんが6月22日に肺炎で亡くなられた。
今頃になって、追悼の想いを綴ろうと思ったのは、訃報を聞いたのが入院中で、高熱にうなされていた頃であったことと、想いがまとまらず、すぐに言葉に表すことができないでいたからだ。
1980年から1984年まで、状況劇場在籍中の思い出は尽きることがない。
ただ、それまでの、60年代に麿赤兒さんや四谷シモンさんたちがいた頃に続く、第二期黄金時代と云われた根津甚八さん、小林薫さんが人気を博していた時代と入れ替わるようにして入団した僕は、座長の唐十郎さん、李さんの期待に応えることができないまま紅テントを去った苦い感覚ばかりが残っている。
けれど、その後も紅テントは観続けていたし、状況劇場解散後も、李さんの舞台には足を運んでいた。
近年では、篠原勝之〜クマさん原作、山﨑哲さんの作・演出「骨風」の稽古場を覗いてくださったり、お話しさせていただく機会も時折あった。
「骨風」は状況劇場の役者たちを愛した若松孝二監督や、状況劇場で音楽を担当していた安保由夫さん追悼の舞台で、状況劇場初期のメンバー、吉沢健さん、大久保鷹さん、四谷シモンさん、十貫寺梅軒さんも結集し、客席に麿さんがいらしたりと、夢のような時間だった。
状況劇場の頃から若松組の主演でもあった吉沢健さんと共に、監督晩年の主演俳優、井浦新も板に立った。
アフタートークでは李さんも、大久保さん、梅軒さんらとテント時代以来、初めて並んだ。
2017年の李さんの公演、銕仙会能楽堂「六条御息所」も観劇することができ、翌年は、哲さんの新転位・21公演「プロヴァンスの庭で」のアフタートークでもご一緒させていただき、状況劇場がテント公演を行うようになった経緯など、貴重なお話も伺うことができた。
2018年には「隅田川」の公演も予定されていたけれど、脳梗塞で残念ながら中止となってしまった。
いずれも、脚本は、李さんがお書きになっていた。
山崎哲さん、制作の森島朋美さんにお誘いいただき、石川真希と一緒にお見舞いに伺った時の李さんは、とても優しかった。
殊に忘れられないのは、状況劇場退団後、僕が初めて舞台に立った三島由紀夫・作「近代能楽集」の公演でご一緒させていただいたことだ。
ただし、出演作品は別々で僕は「葵上」、李さんは「卒塔婆小町」だった。
旅公演もあったので、旅先では状況劇場以来、初めて一緒に食事もできた。
尽きない。

その時の想いでを、今年二月に刊行された国立能楽堂の機関誌に綴っていたので、ご許可をいただき、ここに掲載させていただきます。
芸能はあらゆる時を今にする  佐野史郎

一九九〇年、国立劇場で上演された三島由紀夫作、近代能楽集「葵上」の舞台に立った。六条御息所は歌舞伎の澤村藤十郎さん、演出は二世茂山千之丞さん。
私は光役。

キワモノ役が多い私にも若かりし日はあったのだ。
紅テント興行で知られた、座長、唐十郎率いる状況劇場を後にした一九八四年から、六年ぶりの舞台であった。
唐さんに「お前みたいな芝居をしてたら映像の演技なんてできないぞ」と叱責され、半ば引導を渡される形で劇団を去った後、幸運にも林海象監督「夢みるように眠りたい」で映画主演デビューすることとなり、その時は「もう二度と板は踏むまい」と意を決していたのである。
能や歌舞伎のような型を持たない、いわゆるアングラ演劇と云われた世界に身を置いていた私は、行き当たりばったりの勢いと捏造した感情に任せただけの演技で、作家が書いた世界を本当らしく見せようと誤魔化し続けていたのだと振り返る。
型を持たないからこそ、己を無にして神経を張り巡らし、劇空間を現実として生きなければならないのに。
劇団を放り出された私は、座長の言葉を受けて古い日本映画を観まくった。
中でも小津安二郎監督作品に心酔し、ひたすら小津組の映画に出演している俳優たちの演技を模倣した。
また、小津監督の日記や小津作品の研究本を読み漁り、監督の残した言葉などを頼りに演技の指南書とした。小津組の俳優、笠智衆さんや中村伸郎さんの著書も大変参考になった。
中でも小津監督が笠智衆さんに言った言葉は、今でも肝に銘じている。
「君は、嬉しい時には嬉しい顔、機嫌の悪い時には機嫌の悪い顔を、絵に描いたように出すね。僕の作品に表情はいらないよ。表情はなしだ。能面で行ってくれ」
二度と舞台に立たぬ決意がなぜ崩れたのかというと、能や歌舞伎といった伝統芸能の方と対し、それまで自分が演じてきた舞台の演技ではない、映画の世界で模索し続けていた神経でもって、演劇、映画を超え、虚実被膜を生きてみたいと切に想ったからだった。  能作品の多くは夢と現実、過去と未来、生と死を超えた世界だ。
「夢みるように眠りたい」も、映画のスクリーンの中へと誘われる幻想譚。
唐さんが描く世界もまた、虚構が現実を飲み込み、めくり返らせてしまうような超現実劇空間であった。おそらく唐さんのダメ出しに応えたいとの想いもあったのだろう。
そうして舞台に立った。
奇しくも「葵上」は「卒塔婆小町」との二本立てで、小野小町を務めたのは李麗仙さん。一九八八年に状況劇場は解散。唐さんと劇団創設以来苦楽を共にしてきた李さんは紅テントを離れ、新たな道を歩み始めた頃であった。去ったはずの劇団の大先輩と、再び同じ舞台に立つことになったのは偶然なのだが、奇妙な縁であったと振り返る。というのも、唐さんの戯曲の代表作のひとつ「少女仮面」は「卒塔婆小町」を下敷きにしていたと思われるからだ。宝塚歌劇団の男役スタア、春日野八千代と彼女が恋うる甘粕大尉の構図は、小野小町と深草少将と重なる。
唐さんは『特権的肉体論』の中で「卒塔婆小町」に触れている。
「それ前仏は既に去り、後仏は未だ世に出ず。夢の中間に生まれ来て、何を現つと思うべき」
現れる老婆は現であるけれど、去り行きた、あるいは未だ世に現れていないはずの姿でもある。現と幻が同一であることを感じさせて、観るものをも救う。
私が役者の道を歩み始めた一九七四年、劇団シェイクスピア・シアターの旗揚げに向けて稽古の日々であった。
状況劇場は「唐版・風の又三郎」を、当時はゴミ廃棄場であった夢の島と上野の不忍池で上演し、喝采を浴びていた。あの頃、演劇人のバイブルといえば唐さんの「特権的肉体論」と、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出で知られたピーター・ブルックの「なにもない空間」だった。まさに能舞台。実際、能についても触れている。二人の述べていることは通じていた。
「卒塔婆小町」同様、虚構だからと言って現実と切り離さずに、現前化すること。重々しい緞帳のある劇場であれ、野外テント劇場であれ、歴史ある能舞台であれ、今を生きなければ、常に現在であるはずの劇空間は、図書館や博物館の収蔵庫に収められているコレクションと何ら変わりはしないだろう。もちろん、それはそれで意義深いことなのかもしれない。けれど、それでは、観客は「未だ世に出でず」ものとして見放されてしまったかのようではないか?
再び舞台に立つようになってからご一緒させていただくようになった劇作家、演出家の竹内銃一郎さんや山崎哲さんは、度々、世阿弥の伝書を引用して演出した。
初心忘るべからず、離見の見、秘すれば花、一調二機三声……役者であれば一度は聞いたことのあるそれらの言葉の真意を探り、書き下ろしの新作の稽古場でも六百年前の言葉が今に響いた。
常に現在形であること!
能、歌舞伎、ギリシャ悲劇にシェイクスピア、チェーホフ……新劇はもちろんのこと、今や小劇場、アングラ演劇でさえ同様であろう。格式や伝統をありがたがり、過ぎ去った時間と対等に向き合うことを放棄するかのような観客を疎んで、かつて唐さんは「少女仮面」を書いたのだろう。
けれど、私は観た。田中千世子監督の映画「能楽師」(二〇〇三)「能楽師 伝承」(二〇一〇)に参加させていただいたご縁で、観世流の関根祥六さん、祥人さん親子と懇意にさせていただくようになり、渋谷の松濤にあった観世能楽堂にも足を運んだ。
初めて観た祥人さんの「道成寺」は凄まじく、今、目の前で起きている古の時間であった。乱拍子のところで私はトランス状態となり、数十分が例えではなく、本当に一瞬に感じられた。まるでエレクトロニカのミニマルミュージックのように感ぜられ、まさにどこでもない何時でもない“今”として陶酔していた。そうしてますます能に惹かれていった。祥六、祥人、祥丸、三代による「石橋」も圧巻であった。
一度、祥六さん祥人さんと三人で盃を傾けたことがある。私が映画やドラマの現場に行く時、『風姿花伝』を鞄に忍ばせていることを告げると、祥六さんは嬉しそうにノートに「初心不可忘」と記して下さった。
「本当はいけないんですけどね」
能楽師にとって、ご法度の行為だったのかどうかはわからないけれど、世阿弥の言葉は宝物である。
祥人さんはその後、五十歳という若さでお亡くなりになり、祥六さんも祥雪としてその位を昇華なさった後、二〇一七年に他界なされた。
けれど、時を超え、芸能はあらゆる時を今にする。
(さの しろう/俳優)

*「月刊 国立能楽堂」第447号 令和3年2月号より転載

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