佐野史郎の音楽的生活

佐野史郎×山本恭司・同級生対談

1998/7/14

1971年4月、島根県立松江南高等学校(最近ではサッカーW杯に日本代表として出場した小村徳男もいる)で佐野史郎と山本恭司が出会った。クラスは違ったがロックとギターを通して親しくなった二人は、3年生で同じクラスになっている。高校時代からの二人の関係は、7月に発売予定の佐野のエッセイ『こんなところで 僕は何をしてるんだろう』(角川書店)に詳しく書かれているらしい。先日、赤坂ブリッツで15年ぶりに復活した山本恭司率いるオリジナルBOW WOWにいたく感動した佐野のリクエストにより実現した、四半世紀前の高校時代を語る見た目は異色対談。二人とも松江時代にもどったのか、無意識的にイントネーションが出雲弁しているのを文章に出来ないのが残念。山本恭司をあまり知らない人はこちらのサイトへ。

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★CASIOのエレキングを弾く山本恭司(右)と佐野史郎。高校時代にはじめて合わせたときと同じようなノリでセッションが続いた。ふたりとも「ギターはいいよねー」と何度も嬉しそうに納得していた。ディストーションまで内蔵したエレキングを気に入った佐野は、すぐに買いに走ったのでは? このあと、佐野は酔いつぶれ、オヤジ・モード一直線に。1998年6月25日、佐野宅にて。このときギター2本で演った、BOW WOWの曲「Still」のさわりをそのうちReal Audioでアップする予定です。
山本◆佐野のことは顔は知ってたんだけど、放送室でレッド・ツェッペリンの「グッタイムス・バッタイムス」をかけた時にいっしょだったのが最初じゃなかったかな。

佐野◆その後に、ロックで何が好きだとか話しながらいっしょに帰ったのを覚えてるね。
レコードを聴かせてやるといって、キョウジの幼なじみでボクと同じ19ルームのエカ(小川功)のところに「アイアン・バタフライ」とか持って行ってて、そこでキョウジともよく会ってたんじゃないかな。

山本◆「アイアン・バタフライ」のLPはしばらくウチに来てたけど、カビの匂いがしてて、当時はそれを知らないから、これが異国のレコードの匂いなんだ「いい匂いだナー」って思ってたね。(笑)フラワー・トラベリング・バンドの「サトリ」とかもエカのところに佐野が持ってきてたよね。

佐野◆当時オレは「ヤング720」でバンドをチェックしてから学校に行ってたから、エイプリル・フールやフラワー・トラベリング・バンドが出たのを覚えてるし、内田裕也さんもカッコよかったのよ。歪んでるギターの音に神経がいってたから、モップスの星勝さん、つのだひろが入ってからのジャックス、エイプリル・フールなんかが気になってた。

山本◆ボクはローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」でのキース・リチャーズのエンディング・ソロとかカッコいいと思ってた。

佐野◆19ルームではアズキ(小豆沢茂)とビートルズの話しをしてて、アズキが「リード・ギターを弾ける」というから、すぐにドク(毒)というバンドを組んだんだよ。中学校のときに、サイド・ストロークをしているギターとリード・ギターの組合わせが一番美しいと思ってたからね。クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングとか。

山本◆ボクは26ルームで山本真樹がいて、「オレはドラムが出来る」と言うから、じゃあバンドをやろうということになったんだ。そのころは、マサキはドラムを持ってなかったんだけどね。(笑)

佐野◆そういえば、マサキのドラムはオレが譲ってやったんだよ。ドラムの教則本を読んで練習したんだけど、全然うまくならなかったから。(笑)

山本◆へえー、それは知らなかったよ。(笑)それで高校は違うけど、中学の時に仲の良かったナル(成瀬)にベースを頼んではじめてのバンドZOOM(キョウジEG、ナルEB、マサキDr.)を組んだんだよ。それで、ジミヘンの「パープル・ヘイズ」やグラファンの「ハート・ブレイカー」、ジェフ・ベックの「監獄ロック」なんかを演ってたね。

佐野◆最初持ってたグヤトーンのクリーム色のギターはどうしたの?

山本◆柔道部の内田が「キョウジ、エレキギター欲しい?」って聞くから「欲しいよ」って言ったら、先輩か誰かのギターとアンプを6000円で譲ってくれたんだよ。

(このギターは、その後小川が3500円で買い、最終的にはキョウジのサイン入りで、BOW WOWのファンの娘の手に渡っている)

佐野◆それでエカの部屋ではじめて「サトリ」や「ブラック・マジック・ウーマン」のセッションをやったんだよね。3コードをオレが弾いてたら、キョウジが「それは何だ?」って聞くから、「コードっていうんだ」ってEmのコードを教えてやったんだよ。(笑)オレはT・レックスや頭脳警察みたいなバンドもやりたかったから、マサキにドラムを売ったお金でボンゴを買って、それをエカが叩いて、キョウジが1弦だけでリードを弾いてたんだけど、すぐに録音したね。

(この録音を、すぐにキョウジのガールフレンドに電話で聴かせ、「カッコいい」と言われ、満足していた)

山本◆あの時のテープがあったらいいんだけどな。(笑)

佐野◆ドクのころにZOOMといっしょに松江北高の学園祭に出たりもしたよね。エカの手に渡ったグヤトーンのエレキをアズキが弾いてたんだけど、ドクは「ひみつのアッコちゃん」とかコミック・ソングに走るようになって、これじゃダメだってアズキとケンカしたんだもん。

(佐野に言わせるとアズキが、アズキに言わせると佐野がコミック・ソングに走ったという)

山本◆と言いながら、卒業の時のコンサートでアグネス・チャンの「ひなげしの花」を演ったじゃない。(笑)

佐野◆ああ、そうか。それは今もいっしょだな。バラエティ番組に出て背中にドジョウいれられたりするからなあ。(笑)
で、キョウジがZOOMからマッドロッカーになるのはどうしてなんだっけ?

山本◆後にマッドロッカーのボーカリストになる同じ26ルームのソウ(前島惣一)さんが野波というドラマーを紹介してくれて、家に行ったらグランド・ファンク・レイルロードのライヴをかけて、そのドラム・ソロまで全部、最初から最後まで同じに叩くんだよ。「じゃあ、ツェッペリンの「モービー・ディック」は出来る?」って聞いたら、「出来るよ」って、また完璧に叩くんだよ。それでもうビックリして、ナルが行ってた商業高校にいた新宮ヤスヒトというギタリストといっしょにマッドロッカー(キョウジ・新宮EG、ナルEB、前島Vo.、野波Dr.)ができたんだよ。ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」やフライド・エッグの「ローリング・ダウン・ザ・ブロードウェイ」、ツェッペリンの「シンス・アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」 なんかを演ってたね。

(中三で映画「ウッドストック」を観てロックの世界を知ったキョウジは、お姉さんのマンドリンでテン・イヤーズ・アフターをコピーしたりしていたが、生バンドが観たくなり島根大学のダンスパーティを観に行ったところ、飛び入りでジェフ・ベックのような髪をした新宮ヤスヒトがすごいギターを弾き、驚いたことがある。新宮ヤスヒトは島根大学付属中学校時代の佐野の後輩で、通学のバスが同じだったこともあり、佐野のウチにも遊びに来たりしていたという)

佐野◆オレはアズキとのドクにエカEBとメガネ(周藤芳行)Dr.を入れて、はっぴいえんどや遠藤賢司のコピーバンド、ウィンド・シティを組んだんだけど、メガネがバイクで(故障して押しているところを先生に見つかり)謹慎になったんで、文化祭の時に代わりにキョウジにドラムを叩いてもらったりしたよね。メガネもキョウジの家で会って、ドラムセットを買ったと聞いたから、じゃあいっしょにやろうということになったんだ。(詳しくは佐野の年譜を御覧ください)
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★1978年、佐野、小川、周藤がいっしょに住んでいた国立にキョウジが遊びに来たときの写真。

山本◆そのメガネの弟が、佐野たちのバンド、タイムスリップでベースを弾いてるんだもんね。いろんな人脈があるよね。

佐野◆人脈で言えば、いっしょにバンドもやってたエカの大学のクラスメイトの嶋田(久作)の弟が、ネム音楽院のキョウジの後輩で知ってたなんて、どう考えても変な繋がりだよね。
ネム音のギターの先生は高柳昌行さんて、フリージャズの大御所じゃない。どんなことを教えてもらってたの?

山本◆あのね、ガットギターを使ったクラシックのアカデミックなトレーニングだった。そうやってキチっと教えてくれるんだけど、実際に先生のレコーディングを観たら、サックスの人が鼻血をバーッと流しながらブヒブヒーって演奏してた。(笑)先生もロバート・フリップを10倍ぐらいすごくしたような音階を弾いていて、理解出来ないけどすごいと思ったね。

佐野◆ここにテープもある、マッドロッカー2というのは?

山本◆高校を卒業して、ベースのナルも就職しちゃったし、松江工業高校でベースを弾いていたキンさん(佐野賢二)と中学の同級生の浅間EGとドラムの野波とヴォーカルがマサキで、1975年のお正月に帰ったときに1月7日の一回だけ演ったんだよ。

佐野◆そうなんだ。浅間にはキョウジの家で二回ぐらい会ったことがあるな。そうだ、キョウジにはヴァイオリン奏法をなかなか教えてもらえなかった覚えがある。(笑)

山本◆あれはね、ピックで擦ったりいろいろしてたんだけど、松江の園山書店で渡辺貞夫さんの本を立ち読みしてたら、ヴォリュームを0にしておいて弾いて少しずつあげていけばヴァイオリンのような効果が出せると書いてあって、もう目からウロコだよ。(笑)

佐野◆なんだ、本に書いてあったのか、ちくしょう。(笑)
BOW WOWはどうやって組んだわけ。

山本◆これは上野義美(アルト企画プロデューサー)さんという人が元DO.T.DOLLの新美(俊宏)Dr.と斎藤(光浩)EGの他にギタリストをネム音に探しに来たんだよ。上野さんも最初はベイシティ・ローラーズをもう少しロックにしたようなバンドにしようと思ってたらしいんだけど、ボクが入ったら「キョウジの好きにしていいよ」という感じになって、ベースもネム音でいっしょだったケンさん(渡辺健/後にプリズムに参加)も考えたんだけど、マッドロッカー2の時に一回だけやったキンさんが東京に来てることを知ってたから、連絡をとってBOW WOWになったわけ。(この歴史はこのサイトに詳しい。)

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★1977年7月25日の東映東京撮影所でのデビューコンサートのチケット。20年以上も前のことだ。
佐野◆あのころのBOW WOWのライヴは日本青年館とか厚生年金とかいろいろ観に行った。キョウジもシェイクスピア・シアターの芝居をジャンジャンに観に来てくれたりしたし。

山本◆レコード・デビューの時の日本青年館で面白かったのは、新宮ヤスヒトが松江で付きあってた子にホッカ操という娘がいたんだけど、曲の合間に「キョウジくーん、キョウジくーん、私よー、私よー」って言う声が聞こえて来て、こっちはチューニングしてるから分かるわけないじゃない、そしたら「私よー、ミサオよー」、「あっ、ホッカだ」って。(笑)もう何度も「私よー」って叫んでんの。

佐野◆来年、高校時代にキョウジもよく行ってた松江の喫茶店の「MG」が30周年記念でコンサートを企画してるんだけど、なんかいっしょにやれないかな。

山本◆いいよ。コンサートのスケジュールが早めに決まれば、問題ないでしょ。

キョウジがバッキングをつとめた矢沢永吉の話、謎のシルバースターズの裏話などいろいろ尽きなかったのですが、今回はここまで。来年、松江での共演をお楽しみに。(しかし、後で確認すると、佐野は来年の8月お芝居が入っていた。自分で言っておきながら、またもや「いいかげんの佐野」の本領発揮か……。キョウベエはマッドロッカー再結成の連絡をとりはじめたというのに。)