映画人としての佐野史郎



映画主演デビュー『夢みるように眠りたい』

1998/2/6
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映画公開時のチラシ。
友達の嶋田(久作)くんも映画デビューが『帝都物語』で主役だったし、佐野くんもはじめての映画『夢みるように眠りたい』が主演だというところがすごいよね。

佐野◆『夢みるように……』に出演するまでの経緯なんだけど、1984年の8月に状況劇場を逃げ出して(81年にも辛くなり、友人の小豆沢くんの高円寺のアパートに身を寄せる第一回逃亡を企てたんだけど、マキや飴屋法水氏と同期で1年先輩のヨシコが呼びに来て逃亡は1日で終わった)、西荻の周藤兄弟(周藤芳行。松江南高校の同級生で高校の時からのバンド仲間、ドラムス担当。弟のアキタカは嶋田久作脱退後のタイムスリップのベーシストとして参加)のところに身を隠したわけだ。
劇団にも手紙を出して(手紙を最初に読んだのは李麗仙さんだったという)正式に辞めて、何をしていたかというと、バンドをやってたんだ(タイムスリップ)。それで、エンケン(遠藤賢司)さんに気に入ってもらってバックを手伝ったりしてるうちに、エンケンさんとあがた森魚さんとのジョイントのライブがあって、あがたさんのスタッフをしていた林海象氏と出会ったんだ。


そのころ、あがたさんが映画を撮るという話があって、嶋田くんや飴屋(法水)くんも出るというような話になってたような気がする。

佐野◆そうなんだよ。結局嶋田もアメちゃんも東京グランギニョルの旗揚げで参加できなかったんだけど、その映画のカメラテストを、四谷三丁目の喫茶店の二階 で(英語で台詞をしゃべるテスト)受けたんだ。しかし、それがなかなかうまくいかないんだよ。ところが、あがたさんがやるとすごく上手くて、やっぱり芸能のプロは違うなーって思ったりしてたよね。(笑)
それで日を改めてあがたさんの次のカメラテストが終わった日に、海象くんが「これ、ちょっとやってみて下さい」って出してきた台本が『夢みるように眠りたい』だったんだよ。つまり、あがたさんの映画はポシャッて海象氏のが残ったわけ。
シェイクスピア・シアター、状況劇場と10年劇団にいて、唐(十郎)さんにも「そんな演技してたら映像じゃ通用しないぞ」と言われて、役者として舞台はもうダメだと思っていたし、だったら「映像で通用する演技ってどういうものだろう?」と思い始めて、古い日本映画をたくさん観まくって、それでそのころは小津安二郎に入れ込んでたから、大きな声を出さなくても、普段話してるように喋って、丁寧に作って、ちゃんと思ってれば成立するような、映画をやってみたいと思ってたんだよね。
大声を張り上げてた紅テントでの自分の演技の嘘臭さや居心地の悪さみたいなものあって、そんな時にアパートに帰ってアコ―スティックギターでエンケンの曲を弾いてみたり、タイムスリップで嶋田なんかと小さな音のロックバンドにしようって話したりしてたのも、すべてが『夢みるように眠りたい』のような、静かだけど熱い魂のあるようなものに向かっていたんじゃないかな。ちっちゃなことがやってみたいという、本当に素直な、邪心のない、いい人のころだったから、この映画をやってみたいなーと素直に思えたんだよね。
林海象監督も人生をかけた無心の状態だったろうし、エンケンさんとあがたさんが引きあわせてくれた本当に運命的な出会いだった。


この映画のスタッフはそうそうたる人たちが集まったんだよね。

佐野◆美術が木村威夫さん、撮影が長田勇一さん、照明が長田達也さん。超一流の映画屋さんたちが集まった。突撃してみなさんを口説いたという。直接はもちろん会えなかったけど原節子さんにも出演交渉して、もちろん断られたんだけど、後で「いい作品になるよう頑張ってください」と伝言があったらしい。すごいよね。林海象監督のヴァイタリティーは本当にすごかったな。ギャラもなくてみんな手弁当に近かったけど、その情熱に引き寄せられて夢中だったね。でも、映画が公開されてヒットし、ヴェネチア映画祭に招待された時にはギャラもらったよ。みんなじゃなかったかもしれないけど、一応、主演なんで(笑)そういうとこはちゃんとしてたね。
それで、85年の年が明けてからは、もう殺陣の稽古をはじめてたね。2月になってすぐクランクインしたんだけど、最初のチャンバラのシーンが始め上手くいかなくてね、海象は「もうこれで俺の人生も終わりだ」と思ったらしいよ。けど、そこはアングラ出身、本番は気合入りましたよ。ほとんどロケなんだけど、大駱駝館の豊玉の倉庫にはセットも組んで、撮影をしたな。


DVDも廃盤になってるけど、興味のある人は是非観て下さい。

佐野◆あがたさんやエンケンさんも出てるから音楽ファンも観に来てくれただろうし、モノクロのサイレント映画だったこと、インディーズの映画を西武のような大手が配給するということでも、目新しかったんじゃないかな。それに、シネセゾン渋谷のこけら落としだったこともあって、かなり宣伝してたから、ずいぶん人も入ったんだよね

おかげでヴェネツィア映画祭にまで行けたと。

佐野◆ヴェネチア映画祭には黒澤明などの日本映画の巨匠たちを世界に紹介した川喜田かしこさんや、娘さんの川喜田和子さん、フランス映画社の柴田駿さん、映画評論家の田中千世子さんら、錚々たるメンバーと一緒に参加させてもらった。川喜田さんたちが『夢みるように眠りたい』を気に入ってくださったことは大きかったね。
いまでこそ、たけしさんがグランプリまで取るとさすがに大々的に報道されるけど、『夢みる……』のことは全く報道されなかったね。メイン会場でオールスタンディングで拍手がなり止まなくて、海外の映画祭では途中退場する人ってほんとに多いんだけど、ほとんど人も帰らなかったし、ものすごい反響でね。イタリアのおばあさんのお客さんとか「若い頃に観た映画を思い出した」って言って泣いてるし、急遽、記者会見が開かれて。フランスのル・モンドの取材受けたり。だけど日本で無名の主役の映画じゃ報道されるわけもなかったんだよね


佐野くんも海象監督も、『夢みるように眠りたい』があったからこそ、いまの状況があるようなものだよね。

佐野◆もちろん! だけどやっぱり、すべてはエンケンだよ。海象監督との出会いのきっかけもそうだけど、表現に対する純粋な姿勢を教えてくれたのは、やっぱりエンケンなんだ。(原)マスミくんにしても、みんなルーツはエンケンなんだよね。すべては、そこに繋がってるんだ。

佐野くんも参加しているトリビュート・アルバム(『プログレマン』)を聴くと、あらためてエンケンさんの作る楽曲の良さが分かった。撮影をしていて舞台と違った、手応えみたいなものはあったの?

佐野◆最後のカットを撮り終わったときには、芝居の千秋楽みたいな感覚もあって、寂しさと充実感とがないまぜになったような手応えを感じたね。ラッシュも観てたんだけど、特に仁丹塔を登っていくところなんか、ドイツ表現主義みたいじゃない。ああいうのが面白くて仕様がなかったな。
あれ以来、海象監督の映画にはほとんど出てるけど、僕の役所はいつも監督の分身みたいな役のようだね。


その海象監督が冬彦のころ「佐野史郎をはげます会」で「この男にだけは、騙されないで下さい」とスピーチしたときに、ああ、長年付きあうとみんな同じことを思うんだなということが分かった。(笑)すごい、同感だった。

佐野◆あははは、嘘つきで。(笑)でも、最初から嘘つきだとは言われてたけどな。(笑)でも、悪気はないのよー。エンケンさんから何を学んでたことやら。(笑)