映画人としての佐野史郎




『カラオケ』マスコミ試写を終えて

1999/4/18
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★試写会で挨拶する佐野監督。
「カラオケ」の試写も始って、まあ面と向かって「ダメだよ」とは言わないだろうけれども、「夢みるように眠りたい」でいっしょにヴェネツィアまでいっしょに行った映画評論家の田中千世子さんなんかは、ちゃんと評価してくれて、うれしかったなー。
番組で楽屋がいっしょになった伊東四朗さんなんかも細かくギャグを観てくださってたね。ノリで作ったものじゃないからね。
取材を受けても、カラオケ・ボックスに入ってからは「アッという間だった」とか、だいたい評判がいいね。
それに細かく演出をつけた人が「そのままじゃない」とか「自然に見えた」とか言われると、演出家としては嬉しいよね。
俳優として細かく作って「地で演ってんじゃないの」とか「そのままじゃん」と言われることはあっても、演出したことはないから役者だけをやってると味わえない感覚だよね。

この監督用の台本を見ると、たくさんのメモやスケッチが書かれているけど、これは自分のイメージをはっきりさせたいから? それとも他のスタッフに伝えやすいから?

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★細かく書き込まれた監督の台本。
それは両方だな。自分でも分かりやすいし。でも、かなり細かく作り込んでるよね。
プレス試写でどんな反応なんだろうなって心配だったんだけど、思った以上に伝わっている実感があるね。

けっこう笑いも起きていたし、音楽も軽妙で重たくなりがちな画面を軽やかにしてたね。

カラオケ・ボックスに入ってからは筒美京平オンパレードだから、その力も強かったね。
帰国子女で60年代の歌謡曲を全く知らない人にも「良かった」と言われたから、まあ選曲も良かったんでしょう。
最初は、当時の歌謡曲ぽいものを全部新たに書き下しでやろうとも思ったんだけどね。
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★撮影中に使われていたアングル・ファインダーとシャープペン。
ウラジミール・ナボコフが書いてるけど「カミナリの好きな女」とかクレア・キルティが書いた「不思議なキノコ」とかありもしない小説みたいなものと同じように、ありもしない「カミナリの好きな女」の映画のポスターが貼ってあるとかというシーンも昔考えていたんだよ。
その音版を、ありもしない60年代の歌謡曲としてやってみたかったんだな。マニアックだけどね。(笑)でも、幻想の曲にしないとただのノスタルジーに終わってしまうだろうし、普遍性に欠けるように思ったんだ。
90年代の終わりの大人になりきれないようなおセンチな中年男女の話しだけでは、本当にノスタルジーだけで終わってしまうものね。それがテーマではありませんよ、というところをどこかで宣言しておきたかったんだ。
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★アングル・ファインダーで観た映像。
そのためには、一度も聴いたことがなくても、いい曲といい歌詞でないと、そのシーンが説得力を持たないだろうと思ったんだよね。
カルメン・マキさんの「戦争は知らない」にしても、寺山修司さんの歌詞はやっぱりいいものね。今聴くと、当時と違う意味が読み込めたりするんだよ。

ちょうど、筒美京平再評価のブームもあるし。

カルトGS、モンド、ラウンジと、去年撮っている時にひたひたと追い風のように来ていたからね。だからといって、おしゃれな映画にはしたくないというより、出来ないからね。
舞台が田舎だというところは、やっぱり血だよね。

公開されたらこのHPにも感想がくるだろうから、それが楽しみだね。

そうそう、タルコフスキーの評論を専門にやってる人に取材を受けたんだけど、細かいカット割りを分析をやられて参ったけどね。日本映画における「カラオケ」のカット割り、音の使い方、タイミングとか編集の仕方とかの違いを延々と分析してくれた。(笑)
専門誌の取材もあるから、こっちが面白がって撮ってるところまで意味化されたりして、ああそういうふうに観るんだって気がついたりもしたけど。まあ、演出意図がバレバレという部分もあったね。さすが、よく観てるよね。

全部が全部、理屈で作ってるわけでもないだろうし、そんなタイプでもないものね。

たとえば、警報器とシャッターに一瞬恵子ちゃんの顔が映しだされるのだって、説明しようと思えば出来るけど、感覚的なものでもあるしね。でも緊迫感は出るのは間違いないからね。
でも、そこに歌声まで入れたのはスタッフなんだよね。編集の時にはもう入ってて、ああいいなとか思ったんだけど、そういうのはたくさんあったね。やっぱりプロのスタッフはすごいよ。


『カラオケ』の出来るまで

1999/4/18
燐光群の「漱石とヘルン」で松江に帰った時に、母校の付属中学の生徒会長と副生徒会長が来て生徒会誌に原稿を頼まれたんだ。飯塚が死んだこともあって、その日に中学校の同窓会をやったんだよね。その時には、映画の話しは「やりませんか?」というぐらいで、そんなに現実化してたわけじゃなかったんだよ。

じゃあ、中学校の同窓会をモチーフにするというアイディアもまだなかったと。

そう、そう。
それで、東京に帰って、プロデューサーの貴島さんや脚本の竹内さんに僕がやりたいのはこういうことですと、同窓会のモチーフを出したんだね。
その次の年のお正月にやった同窓会では、もう企画も決まってたから、「映画を撮るのに、同窓会をモチーフにしたものにしたいから、ご了承願いたい」と言って、取材も兼ねてたね。
飯塚の死があって、同窓会があって、生徒会誌に文章を書いたあたりから、映画がはじまっていたんじゃないかな。
これがその生徒会誌に載せた文章なんだけどね。

同窓会  第22期卒業生  佐野史郎
 僕の初恋の人を探すという、いかにも芸能ノリの取材がもとで三年三組の同窓生の何人かが連絡を取りあううち、毎年必ずではないけれど、松江にいる仲間たちを中心に集まるようになって十年近くが経つ。多くは公務員や教師、医師などで、さすがフチュー、品が良い。俳優なんぞというヤクザな仕事をしているのは僕くらいのものだ。
 けれど会えばそんなことはすぐに忘れて思春期の身体に戻ってしまう。みんな「あの時、先生に逆らっちょったが」とか「本当はアイツはΟΟさんが好きだったデ」とか言ってはしゃいでいる。
 メンバーは何人かを常連として必ず久しぶりの人間が入るので、新鮮さが失われることはない。そのくせ何十年ぶりに再会したというのに「おう」の一言で、まるで昨日教室で「バイバイ」と言って別れて今日「オハヨー」と登校してきたのと変わらない。
 幹事はI君。中学時代から明るく活発な、けれどちょとワルっぽい人気者だった。実はI君に僕は中学卒業の春休み、ギターを教わって、当時流行っていたフォークソングなんぞに夢中になっていた。その後高校時代や芝居を始めてからも、常にギターや音楽が大切な友達や仕事と引き遇わせてくれていたことを鑑みるとまさにI君こそ僕の恩人。
 仕事も落ち着き、家庭では子育ても一段落。みんなそんな三十代半ばの再会だったからか、I君を中心としたこの同窓会は十年近くが過ぎた今も途絶えることなく続いている。
 初恋の人はナイショだが、みんなには話せる。男子も女子もまるで中学生のままだ。あらゆるしがらみから開放され、息をつく。あんなにもどかしく、苦しく切ない中学時代だったというのに…。だから余計に悔しい。I君が心不全で急逝してしまったことが!!
 なのにI君追悼の同窓会は決して沈んだものではなかった。笑い声が絶えなかった。日常会うことがないからか、I君がいることといないことの区別がよくわからないのだ。それはあの愛宕の森の古い木造校舎とて同じこと。あの三年三組にいた僕ら。
 第二理科室、プール、暗い便所や蝿のたかる食堂…学生運動してた教生の先生…。I君も僕らもまだあの学校を卒業する訳にはいかない。いることといないことの区別がつくまでは。同窓生なのだから。

それと、「カラオケ」のシーンで同窓生が割烹に集まるところがあるんだけど、美保純さんに旦那のベンガルから電話がかかってきて、フスマ一枚隔ててみんなが喋ってるというところで、現場で台詞を急遽書いたんだよね。
それは録音したんだけど、最終的には使わなかったのね。せっかくポンチ(先ごろ亡くなった高校時代の恩師)のことも書いたし、気に入ってるからHPで発表しようかなと思ってね。(笑)現場で5分ぐらいで書いたんだよ。

「カラオケ」S77用Off台詞
相田・「泉から連絡あって、卒業アルバム引っ張り出したんだけど、全然わかんない奴いるんだよ。こんな奴いたっけなーって」
芳枝・「えっ? だれだれ?」
大場・「だれだかわかんないから言ってんだろう! で、誰だよ」
相田・「だから、わかんないって言ってんだろう!」
亜子・「どんな顔?」
相田・「うーん、特徴ないんだよナー」
大場・「背は?」
相田・「普通。でもやせてた」
亜子・「じゃ、中川くんじゃない?」
大場・「中川? …あぁ、ナカガワね」
相田・「わかってんのかよ、お前、ホントに!」
大場・「わかってるよ、いつも将来は政治家になるんだって言ってた奴だろ?」
相田・「あっ、あいつか!! あいつがナカガワか! 今、何やってんだろう」
亜子・「なんか、サラ金に追われて、大変だったらしいよ」
芳枝・「誰に聞いたの?」
亜子・「佐々木先生」
相田・「うわ、ポンチか。こりゃたまらん」
芳枝・「ソーダ、いっつも怒られてたもんね」
大場・「中川ってさ、卒業文集で総理大臣になって、日本を鎖国するって書いてたよな」
相田・「アブナイ奴だなー」
亜子・「オバちゃんは何て書いてたんだっけ?」
大場・「やめてくれよ!」

S78に続く。

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