橘井堂 佐野
2005年8月13日

石井輝男監督…安らかに…。
2005年、8月12日、僕は久しぶりに1999年公開の監督作品、『カラオケ』のスタッフたちと会っていました。
記録の大和屋叡子さん(脚本家、監督の故、大和屋竺さんの奥様)、当時マネージャーだったフタガワ、撮影の柴主高秀氏、照明の長田達也氏、今や人気監督のチーフ助監だった佐々部清氏 は仕事で参加できなかったけど、先日『樹の海』で監督デビューを果たした滝本智行氏……久々の佐野組集結とあいなりました。
次回作の打ち合わせ……と行きたいところなのですが、そうではなく、まずは滝本監督デビューを祝って……と、ワイワイやっておりました。
そこへ、巨匠、石井輝男監督の訃報がメールで届き、マキからも留守電が残されておりました。
大和屋さんとは石井監督の『無頼平野』でもご一緒だったので、ふたりで駆けつけました。
調布の僕等が『黒薔薇館』と呼んでいる監督の御自宅には石井プロの若手たちや、大蔵映画、新東宝時代の助監督の方たちがお集まりになっていて、御遺体を前にみなさん想い出話を語ってらっしゃいました。マキもいち早く駆けつけておりました。

石井監督は死に顔もダンディそのもので、まさに男の美学を全うされたキリリとしたお顔でした。
ところで、館に到着すると、急にどしゃぶりの雨となり、雷も鳴り響き……まるで吸血鬼のお城そのもののようでありました。
僕は、石井監督がむっくりと起きあがってきそうな気がして、しばらく、じっとみつめておりましたが、目を覚まされることはありませんでした。

石井監督が肺ガンで体調を崩し、入院されていることなど、まったく知りませんでした。
病に伏していることなど知られたくもないし、見舞われたくもない……といった美意識がおありになったのでしょうか……?

結果、昨年、拙著、『怪奇俳優の演技手帖(ノート)』で石井監督と対談させていただいたのが最期となってしまいました。
戦時中、東宝に入社したばかりに敵の艦隊の航空写真を撮ることから始まった映画人生をとことんお話しくださいました。
また、おととし、2003年には平山秀行監督らと、一週間、ずっとイタリアのウディネの『極東映画祭』で御一緒でしたし、楽しい旅も経験させていただきました。

想えば、'92年でしたか……つげ義春さん原作の『ゲンセンカン主人』で主演をつとめさせていただいたり、続いての『無頼平野』では石井組縁の吉田輝男さん、砂塚秀夫さん、由利徹さんたちとも御一緒で、石井組の一員として映画に参加できることの喜びでいっぱいでありました。
石井演出から学んだことは数多く、今でも石井監督ならどう指示なさるだろうか……と想うことが多いのです。

唐十郎、山崎哲、竹内銃一郎……といった舞台の師たちと共に、石井輝男監督は僕の俳優人生において、とてもとても大きな存在です。
石井監督、たくさんの教えや想いでをありがとうございました。
安らかにお眠りください。

石井映画はこれからも、ますます後世の映画人たちに“映画のなんたるか”を指し示し続けることでしょうから……。

合掌。

★第5回極東映画祭(FAR EAST FILMS 2003)コラムpart1
★第5回極東映画祭(FAR EAST FILMS 2003)コラムpart2
★『怪奇俳優の演技手帖(ノート)』
★『石井輝男フィルモグラフィ』

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