橘井堂
2012年10月22日

若松孝二監督をめぐる想い

若松孝二監督の訃報を聞いたのは、沖縄、那覇の安ホテルだった。
パッケージツアーに出版社の取材班と同行させてもらい、御嶽(ウタキ)めぐりをしていた。
丁度、台風21号が沖縄に接近中で、風雨の合間を縫っての取材だった。
久高島を取材したかったのだが、結局、久高島を臨むセイファーウタキにも向かえなかった。
そう易々と、呼んでいただける場所ではないようだ。
沖縄に着いた翌日に、若松監督が交通事故に逢ったことを知った。
重症ではあるが、命に別状はないと聞いたので心配はしていたけれど、なあに、すぐに元気になって退院してきてくれるだろう・・・と、高をくくっていた。

亡くなられた時、17日、23時5分には、早めに床についていて、iPhoneも機内モードにしていたので、連絡して来てくれた妻をやきもきさせてしまった。
翌朝、朝食を食べていたところ、編集者の方がやってきて、若松監督の訃報を聞いた。

その日の予定を切り上げ、すぐに東京へ戻った。
動揺はしていたけれど、なんだか実感がなく、涙一つ出ないでいた。
若松組の俳優仲間と連絡を取り、若松プロへすぐにでも行きたい気持ちはあったが、みな自宅で待機することにしていた。
その後、旧知の俳優仲間から連絡があり、出演者たちもそれぞれ若松プロに向かっていることを告げられ、夜になってから手を合わせに妻と向かった。

若松プロの助監督たちや、ご家族の方々にご挨拶をして、横になった監督に手を合わせた。
血色がよく、どう見ても、ただ眠っているようにしか見えなかった。

亡くなってしまったことは理解しても、亡くなっても尚、意識はあるに違いない・・・と思われる表情で、監督に声をかけさせていただいた。

その後、監督とよく飲んだ新宿のバー、ナジャに行き、お店の安保由夫さん、クロちゃんたちとみんなでお弔いをした。
四谷シモンさんもやってきて、やはり、みんな、同じ気持ちでからか、集まって来て、監督のこと、表現のことを語り合った。
ゲージツ家のクマさんからも韮崎から電話があった。
監督の現場での演出っぷりなど、語り出せばみな、キリがなかった。

昨年秋、バラエティー番組「ウチくる!?」に出演させていただいた折、恩師として若松監督がドッキリ!・・・で登場したのには本当に驚いたが、その時、お手紙をいただき、番組中で読んでいただいた。監督がバラエティ番組に出演すること自体珍しいが、それもそのはず手紙の最後は新作、中上健次原作「千年の愉楽」の出演依頼で結ばれていた。
ありがたかった!!

その時の手紙を自宅に戻って取り出し、読んだ。
嗚咽した。

さて、これからどうしたものか・・・。
監督から教わってきた戒めを、守り、また、伝えて行くことが使命・・・と軽々しく口にはできないほど責任は重い。
まずは、「千年の愉楽」の公開、そして多くの方々にご覧いただけることが監督の望みであるはず。

特にここ数年、公私ともにご一緒させていただく機会が多かった。
若松プロに集まって神宮花火を背にしての宴や・・・。
監督と最後に過ごしたのは、湯布院映画祭で、同じ部屋に泊まり、遅くまでお話しさせていただいた。
新藤兼人監督のこと、今村昌平監督のこと、黒木和雄監督のこと、ソクーロフ監督のこと、そしてテオ・アンゲロプロス監督と会った時のことも話してくださった。
若松監督とアンゲロプロス監督が同時に語られることは少ないかもしれないが、僕の中では重なる。
政治的な題材を取りあげているからだけではない。
やはり、映画でしか語り得ない表現を徹底してなさっているからだ。
まるごと詩人なのだ。

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★2012年8月23日、湯布院映画祭にて「千年の愉楽」上映後のパネルディスカッションにて。 これが最後になろうとは・・・。


想えば、故・川喜田かしこさんやフランス映画社の柴田駿さん、故・川喜田和子さんらに誘われて映画デビュー時、ヴェネチア映画祭に参列させていただいたことでアンゲロプロス監督の作品にも強く惹かれるようになった。
そのアンゲロプロス監督も交通事故でお亡くなりになった。
そんなことまで重ねあわせたくはないけれど、モラルやルール、社会通念と、それを外した時に他者と向きあう関係・・・そこに同じものを観るのは強引だろうか?
・・・そういや、次回は沖縄が舞台の映画だとおっしゃってたっけ・・・。 紀州から琉球へ・・・。
アンゲロプロス監督も「エレニの旅」の最後は沖縄で締めくくられていたな・・・。
またしても、強引な因数分解か・・・?
出会い、別れる・・・その繰り返しを受け入れるのが生きるということだと理解はしても・・・やはり切ない。

???气wモドル