橘井堂 佐野
2004年2月19日

追悼、世良譲さん
NHKラジオの『ラジオ深夜便』で世良譲さんの御逝去を知りました。
2月17日、午後2時過ぎ、死因は多臓器不全だそうです。
世良さんのお兄さんが亡き父の友人で、子供の頃から、コーラス・グループでバスを担当していたお兄さんがNHKの音楽番組に出演しているのを見る度に、父が自慢していたのを思い出します。
父もヴァイオリンをたしなみましたので、音楽で身を立てている友人が誇らしかったのでしょう。
譲さんとお会いしたのは、僕がTVドラマや映画に顔を見せるようになってからで、特に、篠田正浩監督の『写楽』の時、紫綬褒章を受賞なさった故・フランキー堺さんのお祝いに皆でかけつけた時のことが忘れられません。
出演していた真田広之 さんがウッド・ベース、僕がグレッチのギター、フランキーさんがドラム…という夢のような演奏をさせていただいたのを覚えています。
「ペイパー・ムーン」をやりましたっけ…。
その時、譲さんとは一緒じゃなかったけど、フランキーさんと楽しそうにセッションさってた姿が忘れられません。
想えば、戦後の芸能史のなかで、彼等、ジャズ・ミュージシャンはとてつもなく大きな役割を演じていらっしゃったことを痛感させられます。
昭和四十年代に、『11PM』なんていう、TVの大人のショウ番組で、さりげなくピアノを弾いてらした姿を覚えていらっしゃる方も多いのでは・・?
TV局ですれ違った時など、大声で「おお!サノ〜!!どげしちょーや!!元気かや?伯父キはどげしちょーかいの!?」(出雲弁で:おい、サノ君!どうしてますか?元気でやってますか?伯父さんはどうしてますか!?…の意)と、周りのことはお構いなしに出雲弁でまくし立てる世良さんが頼もしかったです。
なんでも、僕の伯父とは、学生時代からの悪友で、戦後間もなく、ギターをたしなんだ伯父と一緒に、松江の白潟天満宮(しらかたてんまんぐう)裏のクラブでジャズ・コンボを組んで演奏していたそうです。
血は争えんな〜。
今の俺と山本恭司みたい…って言えば良いのかどうなのか…? 松江の僕の実家にも、よく遊びに来てたようで、相当ワルかったそうです(ここでは言えないことだらけ)。
亡き父が、よく笑いながら話してくれてました。
僕の祖父によく怒られてた…なんて話しは、随分、後、大人になってから聴いたことでした。

同郷の先輩がいなくなるのは、想ってる以上に寂しいものです。

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