橘井堂 佐野
2015年7月8日

演劇評論家、扇田昭彦さんお別れ会


7月6日、池袋の東京芸術劇場で5月22日に亡くなられた演劇評論家の扇田昭彦さんのお別れ会が催され、600人もの演劇関係者たちが扇田さんを追悼した。
30代になって、劇団から離れた僕は、劇場や古巣の唐十郎さんの紅テントでお会いすることはあっても、そんなにじっくりとお話しさせていただく機会はなくなってしまっていた。
けれど、竹内銃一郎さんとのJIS企画の数々の舞台、山崎哲さん作、演出、二人芝居「春」や「新・転位21」への参加、唐さんの作、演出の一人芝居「マラカス」など、劇団を離れた後、映画やドラマを中心とした俳優人生を送りながらも、決して舞台から離れたわけではなかったので、やはり扇田さんの存在は気になった。

朝日新聞、学芸部、演劇担当の記者として、その後も演劇評論家として1960年代から現在までを一途に貫き、日本の演劇シーンにおいて、常になくてはならない方。
唐十郎にまずは取材したことからスタートしたという演劇評論家としての人生。 テントに密着し、テント小屋を立てるのも手伝い、身体を張って取材をしたという。
扇田さんのそんな姿勢が、実は僕の役者人生のひとコマのなかで、ほんのひとしずくほどだったかもしれないが、大切な場面につながってもいた。

僕は扇田さんに、40年前の初舞台を観てもらっている。
扇田さんや大笹吉雄さんといった演劇評論家のみなさんや、シェイクスピアでは書き下ろしならぬ、「訳下ろし」をしていただいていた小田島雄志さんらが客席にいても、若かった僕らは演劇をやっているというより、シェイクスピアを借りてはしゃいでいるばかりだった。
歴史劇であろうが、悲劇、喜劇、そのスタンスは今振り返ると変わってはいなかったと思う。
そんな若者たちを、扇田さんたちは厳しくも暖かく見守ってくださっていたと思う。
劇団シェイクスピアシアターの旗揚げに参加し、渋谷の小劇場ジァンジァンでの毎月の公演や旅公演。
1978年に退団するまで500ステージを越える舞台に立たせてもらっていたことが、今、振り返ると色々な意味で大きな学びの場だったのかもしれない。

しかし、そんなことにも気付かず、元気なばかりでデタラメな芝居をしていた僕は、目的を失った。
そして、シェイクスピアシアターを飛び出し、役者を続けるならば…と、唐十郎の門戸を叩き、状況劇場に入団した。

入団してひと月が経った頃、春の公演が始まった。
初めての紅テントながら、小さな役で、ほんの一瞬だったけれど、舞台に立たせてもらった。
開演前、テントの周りで作業をしていた僕は視線を感じた。
振り返ると、少し離れたところで唐さんと扇田さんが二人でうすく笑いながらこちらを観て話をしている。

今頃、気がついた。
それでだったのか…その週の芝居がハネて、みんなで銭湯に行き、稽古場に戻って酒盛りが始まるのだが、唐さんはいち研究生の僕を呼んでこう言った。
「小さい演技ができなければ、大きい演技はできないし、大きい演技ができなければ、小さい演技もできない」と。
きっと、扇田さんが、唐さんに、シェイクスピア時代の僕の芝居のことをチラリと話し、それでダメ出しをしてくれたんだろうな…と。

もちろん、思い上がりである。

でも、その年の秋の公演で、大きい役を書いてもらえたのは嬉しかった。
…決して、役をまっとうできた…とは言い難い、苦い思い出ではあるけれど。

扇田さんの笑みがよぎる。

「お別れ会」には旧知の先輩俳優さんたちや、後輩たち、スタッフの方々でいっぱいだった。
シェイクスピアシアターの出口典雄さんや、同期の田代隆秀さん、状況劇場の周りでは麿赤児さん、四谷シモンさん、嵐山光三郎さん、篠原勝之さん、安保由夫さん、石橋蓮司さん、緑魔子さん…柄本明さん…平田満さん…最近共演させていただいたばかりの白石加代子さん…もちろん唐組の面々も。

閉会し、クマちゃんこと篠原勝之さんと、嵐山光三郎さん、四谷シモンさん、安保由夫さん、唐組の久保井研さんとで、池袋の安酒場で献杯した。 新宿に移動し、バー、ナジャへ。
若松孝二監督のことも思い出しながら。
先輩たちに囲まれながら、まだまだ、これからが勉強だと、40年経っても教わるのだった。
扇田昭彦さん、ありがとうございました。
安らかにお眠りください。

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★「一生を棒にふる」…その、振るだけのエネルギーが、周囲の人を奮い立たせるのだろう。

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★左から、四谷シモンさん、嵐山光三郎さん、篠原勝之さん。扇田昭彦さんを偲ぶ夜に、新宿二丁目で。

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