橘井堂 佐野
2004年8月18日

廣田建一先生がお亡くなりに…
廣田建一さんというブラジルはサンパウロ在住の画家がお亡くなりになりました。
72歳。
拙著「こんなところで僕はなにをしてるんだろう」や、雑誌のエッセイや取材でも何度か御紹介したことがあるのですが、昭和30年代初頭、練馬の桜台に住んでいた頃、両親が出会った画家であります。
新世紀展の会員で、ピカソ、クレー、マチスらをこよなく愛した方でありました。
小学校1年生の3学期、松江に移るまでの数年間、僕は廣田先生に毎週画を教わって……というか、遊んでいただいておりました。
上野の美術館や横浜の港、バラ園…スケッチブック持って写生に連れて行ってもらった思い出は忘れがたく、想えば実に恵まれた環境でありました。
亡き父がバイオリンをたしなんでいたので、それをモチーフに油彩画作品を制作なさったり…。
後に僕が表現のことから逃れられなくなったのは、この頃の擦り込みではないか……?とも思うのです。
父の趣味だった真空管アンプやラジオの制作、0ゲージ、HOゲージの模型機関車…医師と画家がそれを肴に音楽や美術、機械…それぞれの話題に花を咲かせ、卓袱台を囲んで母が笑う光景は幼少のさいわいな記憶です。

人生最初の師に、ただただ感謝であります。

近年は日本でも数回個展をお開きになっていらっしゃいました。
そんな折には、たまたま僕が舞台を務めていることが続き、一人芝居「マラカス」の時には観劇していただき唐さんをご紹介できたこともありました。
また、美学校時代の油彩画の師、中村宏先生の個展の折にはお出かけになり、御対面なさったそうです。
昭和30年代、アンデパンダン展や、抽象画が勢いのあった頃、若き芸術家たちの仕事あればこそ……と想いを深くするばかりです。
ちなみに廣田先生は初め、東宝映画で美術のお仕事をなさっていたそうです。
クレジットこそありませんが、豊田四郎監督には随分可愛がっていただいた…とおっしゃっていらっしゃいました。
「夫婦善哉」の時は、ずっとカメラの横にいたそうです。
また、「ゴジラの逆襲」では、ヘリコプターのフードや街のミニチュアを作っていた……ともおっしゃってました。

なんか、すでに、織田作之助や香山滋……といった好みの作家が登場しているのも運命でしょうか?

数年前、我が家でゆっくりと食事をなさり、一泊して「夫婦善哉」のビデオをご覧になった時のお姿が印象深いです。
八雲が2〜3歳の頃も、アパートにいらっしゃったことがあって、僕の子供の頃と同じように八雲が先生と一緒にお絵描きしていた姿も忘れがたいです。

廣田建一先生の御冥福をお祈り申し上げます。
合掌。

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