橘井堂 佐野
2014年4月21日

橋本潤よ、安らかに眠れ
バンドのメンバー、ベースの橋本潤が逝ってしまった・・・。
2014年4月14日、午前2時4分。 昨年レコーディングし、マスタリングも終え、蛭子能収さんにジャケットも描いてもらい、ライナーノーツも脱稿していたのに、発売が延び延びになっていた。
6月にリリースが決定したとの報告をもらった矢先の訃報だった。
新しいアルバムは「ニュープリント」バンド名は「ゼラチン・シルバー・ミュージック・クラブ・バンド」(New Prints/Gelatin Silver Music Club Band)

潤と最初に会ったのはいつだったろう・・・?
20年ほど前、彼がシーナ&ロケッツでプレイしていた時のことは良く覚えている。
僕が司会を務めていたNHK-BSの音楽番組でゲストに来ていただいた時、一緒にセッションしたのが最初だったかな?
その頃、僕はタイムスリップというバンドをやっていて、1990年代の終わりに解散し、新しいバンド「佐野史郎とライスカレー」をドラムのGRACE、ギターのEBBY、タイムスリップでも一緒だったベースの周藤朗険(ストウアキタカ)とで結成。だが、数年活動した後、アルバムを1枚作って解散してしまった。
GRACEとバンドは続けていこうとした時、今は移転してしまったが、タイムスリップ時代にLIVEも何回かやらせてもらった吉祥寺の「のろ」で、バッタリ出会った橋本潤に声をかけたところ快諾してもらったのだ。
二人とも吉祥寺の住人だし、通りでよくすれ違ったりはしていたのだけれど。
高田渡さんも通った吉祥寺の焼き鳥屋「いせや」でも一緒に飲んだな。

佐野史郎/g、GRACE/dr、橋本潤/b の3ピースで始めた当初はバンド名もなかったが、2005年にsanchとしてCD「short movies」をリリース、その年にフジロックフェスティバルにも出演した。
その後、不定期ながらもLIVEを続け、トリビュートアルバムに参加したりと、一緒に音を出さなかったことはなかった。
メンバー全員のスケジュールが合わない時などは、潤と二人、ベースとアコギのセットでやることも少なくなかった。
音源も少しづつ録りためて、昨年夏に新しいアルバムをリリース予定だった。
バンド名も変え、再スタートを切ろうとしていたところだったので、本当に残念だ。

5年前、故郷の島根県松江で、通い慣れた喫茶店MGの35周年を記念するライブがあり、同級生の山本恭司や鈴木茂さん、遠藤賢司さんらと一緒に僕らも参加し、僕の音楽の原点の空気を分かちあえたのも大切な時間だった。
ただ、その頃から体調を崩しはじめていたように思い返される。
その後、直腸がんを発症し、手術後は体調に気をつけながらベースを弾き続けていた。
横道坊主 のメンバーとして、精力的にツアーを行いアルバムもリリースしていたし、潤とトランペットの渡辺隆雄さんとのユニット「橋渡し」でもツアーやアルバムと、精力的に活動していた。
潤にとってベース一本抱えて生きることこそが、人生だったのだろう。
一方、献身的に潤を支えていた奥様や立派に成長したご子息二人の存在が、潤にとって大いなるやすらぎだったに違いない。

潤の肉体はなくなってしまったけど、残された音は数多い。
たとえ話ではなく、実感として、潤の放った音そのものが、肉体と同じように感じられる。
ちょうど、フイルムのネガポジの関係のように。

これから先、このバンドをどうしていくかは、まだわからないでいる。
けれど、潤よ、見守っていてくれ。
アルバムのリリースが決まって、蛭子さんのジャケットのイラストが届いた時、喜んでくれたね。
ありがとう。
一緒にプレイした日々のこと、忘れません。
橋本潤よ、安らかに眠れ。

photo

★昨年10月、西麻布の「新世界」にて。鈴木茂さんとのLIVEが最後の僕らの音になってしまいました。

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