橘井堂 佐野
2000年11月22日

父の死
父、佐野義和、11月8日、午前8時26分に永眠いたしました。
75歳でした。
胃癌で、全摘手術を行ったのが2月。
8月あたりから、序々に容態が悪化しておりました。
上記の文章は、父の死の当日、松江の自宅からノートパソコンでホームページ上に送ったものです。あわただしさのなか、誰か父の知り合いの方の目にとまれば・・・と思ったのが一番なのですが、本当は不安や、やりどころのなさを、ホームページを訪れてくださるみなさんに伝えることで打ち消そうとしていたのかもしれません。

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★家族写真。
父とは正月に、例年どおり新年会で親族集まって飲みました。
ここ数年、帰省する度、父とは本当に良く飲みました。
ただ、例年は元旦に松江の実家に集まり、2日は母の実家の出雲大社で新年会・・・というのが、恒例だったのですが、今年に限って、僕も帰るのが2日になり、両親も元旦に大社に出かけていました。
「いつもと違うことをするとよくない」と父は気にしていましたが、予感が的中してしまったのは、何とも残念です。
今年は、出雲大社の写真館の従兄も亡くしてしまいましたから・・・。
しかし、「そうするのは、それなりの理由があるのだ」とも言っておりました。
父は年齢や健康の面から、医院をそろそろ辞めなければ・・・と思っていたようで、後をどうするかについて、ずいぶんと悩んでいました。しかし、胃癌の手術を2月に受け、入院中に弟が勤務医を辞める決意をし、後を継ぐこととなりました。
そのことは、父を安心させましたが、弟の家族や周囲の方々を少なからず振り回してしまったようです。兄としては、やはり、申し訳なく思うのです。

父と最期に会ったのは、10月の末、祖父の33回忌のために帰った時でした。
父はどうしても自宅で死にたいと言って、病院をむりやり退院させてもらっていたのです。弟が医者だった故、言えた無理でした。
法事を無事に済ませたことを伝えると、「おじいちゃんは本当に成仏しただろうか? まだその辺にいるような気がする」と言いました。「33回忌で帰ってきてるんじゃないの」と言うと、「うーん」と言っておりましたが、もしかしたら、本当にお迎えに来ていたのかもしれません。
もう、死期をわかっていたようですから、「もう十年生きたかった」とか、「『後のことは心配するな』と言ってくれて感謝している」とか、さすがに弱気な発言が多かった父でした。寝床に孫たちを全員揃えて呼んで、「勉強ばっかりしなくてもいいけど、やることはやらなければだめだ」と、もっともなことを言っておりました。
翌日、東京に戻る時、父は目も患っていましたので、「眼鏡がないか」と言いました。傍らの眼鏡を差し出すと、「これは近くのものを見るやつだからだめだな」と言いましたが、僕の顔を見納めたいのだとはわかりつつも、照れくさいので、「じゃね」と言って、実家を後にしました。その後、電話で2,3度話しましたが、最後の頃は意識も空ろのようでした。
自身が医者ですので、薬のことも全てわかっていて、なるべくモルヒネは使いたくないようでしたが、痛みには勝てなかったようです。

11月の8日、早朝に母から危篤の知らせを受け、とりあえず僕だけ向かいました。
羽田に向かう車中で、携帯にマキから父の死の連絡を受けましたが、ひとつも悲しくありませんでした。
出雲空港へ向かう飛行機のなかでも、本を読んだりしておりました。古井由吉の「聖耳」は、死がテーマでしたから、染み入るようでした。
マキは岡山から山陰へ抜ける伯備線が地震の影響で閉ざされていたため、飛行機の便にも影響し、結局、大阪まで行って、翌日飛行機で入ることになりました。
マキの両親と八雲は、寝台特急「いずも号」で、やはり、翌日入り。
通夜は、ひっきりなしに人の出入りがあって、あわただしかったです。
色んな方たちが、涙を流してくださって、あんなわがままな父親に、こんなにしてもらって、正直に、嬉しかったです。
父の顔は黄だんが出ていたので、かえって白すぎず、また、表情もとても穏やかで、救われました。
入棺する時に、三角巾をつけ、足袋を履かせ、伽半や手甲をつけ、しっかりと固結びをし、杖を持たせ、財布を入れました。
布団から棺に運ぶ時に、まだ布団があたたかかった。
葬儀屋さんから、「何か、生前好きだったものをいれてあげてください」と言われたので、カメラを入れてあげたかったけど、金属類はだめなので、本を入れることにしました。
八雲が書いた、「おじいちゃん元気になってね」と描かれた絵やら、姪っ子の写真やらと一緒に、母は「リスニングルームの設計」という本を入れました。
父は、医者にありがちな道楽家で、カメラや模型機関車や飛行機、オーディオの類が大好きでした。また、自身もヴァイオリンをたしなみました。
幼い頃の記憶では、とにかく、そういった、OゲージやHOゲージの模型機関車やら、ラジコン飛行機、2眼レフカメラ、自分で写真を現像したりとか、アンプを組み立てたりとか、ヴァイオリンを弾いたり、イタリアのカンツォーネ、「カタリ」を歌っていたりとか、そんな断片だらけなのです。

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★父と海水浴。
そうそう、「天丼」の記憶や、江戸川乱歩の「電人M」を買ってもらったこととかね。
ああ、思い出した。
最期に、「そういや、『天丼』は作ったのか」と訊いてきました。小学生の時、父に連れられて食べに行った天丼が忘れられず、今はなきその天丼屋の味を再現しようと、番組で、作ってもらった件です。「うん、そのとおりかどうかはわからないけど、美味かったよ」と、胃袋のない父と食い物の話をしたのは皮肉でした。僕にとっては、父の思い出で、とても印象的な一頁です。
父は意識を失う直前まで、オーディオに囲まれて、母とスイッチのありかなどのことで喧嘩しながらも、大音量でクラシックミュージックを聴いていたそうです。
趣味人としては本望でしょう。
目を患っていた父が、聴覚に対して、異様な執着心を持っていたのは、なんとなく察せられます。

通夜は菩提寺の善光寺の石倉住職が務めてくださいました。
父の兄弟姉妹たちの家族とあんなに話したのも久しぶりでした。
特に、叔父とは男兄弟は父と二人でしたから、色々な話しが出てきました。
なかなか幼い頃の父の話を聞く機会はありませんでしたから。
ジャズピアニストの世良譲さんは叔父の友人で、学生の頃、しょっちゅう遊びに来ていたそうです。一番下のサトコおばちゃんもウクレレ弾いてたし、ヴァイオリンやギターなど、楽器の話がずいぶん出ました。
世良さんのお兄さんも声楽家で、父の親友でしたから、まあ、僕にとっての、アズキやエカや、メガネやキョージみたいな存在だったのでしょう。
通夜にはアズキやメガネ、それに高校の音楽仲間の後輩のミチコも来てくれて、棺の前でビールを飲んでくれました。
父はアズキのことを、「またアズキかっ!」と言って、高校の頃は、この悪友を良くは言っていませんでしたから、「『またアズキかっ!』って、言っちょうで・・・」と言って笑いました。
そうそう、会えなかったけど、通夜には、幼なじみのユミちゃんや、高校生の時からの女友達、サエちゃんも来てくれたようです。
これでは、まるで僕の「ふたりだけの秘密」の小説の30年後です。
確かにあれは、あの時の祖父の死に捧げられてはいますけれど。
深夜、弟夫婦と、妹夫婦とビールを飲みながら思い出話をしていた時のことです。ヒョイと棺を覗くと、父の顔の横に、母が入れた「リスニングルームの設計」という本がありました。それはそうです。母が入れたのですから。
それを見ていたら、なんだか急に可笑しくなってきてしまって、思わず笑ってしま いました。
だって、棺おけの中までオーディオ持ち込んで、リスニングルームにするような気がしてしまったからです。まあ、そのくらいのことはやりかねない父だったということです。
全員で大笑いしましたが、父の顔も心持ち笑ったように見えたのは気のせいだったのでしょうか?
その夜は、父と二人で眠りました。

翌日、いよいよ出棺の時、ご近所の方々が送ってくださいました。小学校の時の同級生もいました。そんな時は、身体が一瞬、子供に戻りますので、辛い気持ちになりました。 霊柩車が金色なのでびっくりしました。
母が遺影を持ち、弟と僕が位牌を持ちました。
斎場に着くと、間もなくマキや八雲たちも到着しました。
夢枕に立ったと言って、天理の叔母さんや生駒の叔父さんも駆けつけてくれました。
喪主の僕は、棺を焼く時にボタンを押さなければなりませんでしたが、全然平気でした。
お別れをする時、何人かは泣いていましたが、八雲や、甥っ子、姪っ子たちは興味深々で亡き父の顔を覗き込んでいました。
「八雲の絵も入れておいたよ」というと、娘の八雲は満足そうにしました。
遺体が焼かれる間の一時間半、大きなガラス窓から見える庭や、山々が陽に照らされてどんどん明るくなって行きました。
さて、いよいよ焼かれ終わって骨壷に骨を入れる段になりました。
焼かれ終わって骨になった台のあるところに、みんなで入って行きました。
八雲がこんなことを言うのです。
「バーベキューみたい!焼肉のにおいがする!!」
不覚にも、ここでもまた、みんな笑ってしまいました。
骨を箸渡しする時も、落としてしまったり、また、その落ちた骨が、台座と台の隙間に落ちてしまったり・・・。
骨壷に入りきらぬ骨を見て、「余った骨はどうするの?」と、また八雲が訊くのです。
一瞬、絶句した斎場の方は、落ち着いて「・・・ご供養させていただきます」とおっしゃっていましたが、本当はどうするのだろう?
まあ、どうしたところで、死んだ者が生き返るわけではないのだから、僕は気にしませんが・・・。
最期に喉仏を入れるのですが、頭が落ちてしまっていました。
どうせ崩れてしまうのだからと、気にせず、蓋をしてもらいました。
骨壷はまだ暖かく、昼食を取る控え室の祭壇に位牌と遺影とお骨を設置した後も、まだ実感が湧きませんでした。
身体がないというのにです。
お弁当は結構食べました。
八雲たち、いとこ同士は、大はしゃぎで遊んで、駆け回っていました。

葬儀には350人ほども参列していただけました。
事務所の社長やマネージャーたちのはからいで、芸能関係の方はいらっしゃいませんでしたが、東京医大の同窓生や、医療関係の方々に大勢集まっていただけました。
意外と言っては申し訳ないのですが、親族の同級生、友人の方々が駆けつけてくださったのが、皆嬉しかったようです。
僕も、松江南高校のクラスメートの奥井さんが、最近他界したばかりでしたし、葬儀に参列できなかったことが悔やまれていたところでしたから、同級生が何人も来てくれたのが、不謹慎ですが、「死」というものを分かち合えるからか、余計にうれしかったのです。
カノーさん、ミヨちゃんにイズミ姉さん、クミさん。ありがとう。
中学校の時の同級生の中島さんは、やはりお医者さんのお家だったから、父とお父さんの交流があったからでしょうけど、30年ぶりでしたね。ありがとうございました。
あ、エカのお父さんもすみませんでした。
葬儀は、お経も素晴らしく、また、医師会会長の日高先生や、曾祖父の代からお付き合いのある、田辺さんの弔辞も染み入りました。
喪主の挨拶は、職業病で、通夜で笑ってしまった話などを入れてしまい、それこそ墓穴を掘って嗚咽してしまいましたが、なに、一瞬のことで、基本的には、父の死を冷静に受け止めることが出来たと思っています。
ただ、仕事の都合で、葬儀を終わらせるや否や、東京に戻らねばなりませんでしたので、戻って、一人、東京の家にいて、古いアルバムを取り出して、父が撮ってくれた幼い頃の家族の写真を見ていたら、泣いてしまいました。
マザコン役の印象の強い僕ですが、実はこのように、強度のファザーコンプレックスの持ち主なのです。
しかし、まあ、親の死に目には会えないと云われる役者稼業、さよならできたのには感謝しています。
誰に・・・と言われると困るけど、マネージャーや、ドラマのスタッフはもちろんのこと、やはり、亡き父に。

追記させていただきますと、父の死の3日後に父のすぐ下の妹・・・つまり叔母さんのつれあいの高尾の叔父さんが亡くなりました。
同じ斎場に何日も空けずに戻るとは思っていなかったのですが、こればかりは・・・。
叔母さんの哀しみは、計り知れません。

父も、義叔父さんも、是非、むこうで仲良くやってください。
合掌。

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