橘井堂 佐野
2001年4月23日

南大東島紀行…「ゴジラのいる島」取材旅行1
4月11日
スケジュールの空きを狙って、急遽、「ダ・ヴィンチ」で連載中の「ゴジラのいる島」の取材旅行を決行する。
休日ならば家族旅行を思い立つところだが、八雲は学校があるし、マキもLIVEなどがあるため、一人で出かける。
前日、宿と沖縄までの航空券の予約だけは済ませておいた。
なにしろ急な思いつきなので、マネージャーの渡邊氏や橘井堂のデスクの佐藤ちゃん、「ダ・ヴィンチ」編集担当の丹治氏などのスタッフに連絡するのは後回し、一人でコトを進める。
付き人の青木君には羽田まで送ってもらうが、早速アクシデント・・・というか、オマヌケをやらかす。
那覇までのエアーは押さえていたものの、那覇から南大東島までの時刻表がみつからず、ネット予約ができていなかったのだ。そのため、この日のうちには既に連絡便がなく、南大東島にはたどりつけないことが発覚!
急遽、羽田から那覇のホテルを予約し、大東島のホテルにも連絡を入れる。
大東島は北と南があり(沖大東島もあるがこちらは少し離れた小さな無人島)どちらも訪ねてはみたいのだが、あまり決めずに、行き当たりばったり旅行とする。

そもそも、何故に大東島かと言えば、「ゴジラのいる島」の設定を伊豆諸島や小笠原諸島の文化と琉球文化の混じったものとしていたので、それに近い位置ということで、かねてからネットで参考にしていたのだ。元々、島の大きさ、人口など、日本中の離島の検索をしながらの執筆だったので、大東島のサイトもちょくちょく覗いていた。刷り込みもあったのだろう。しかし、実際に八丈島からの移民と沖縄からの移民によって文化が形成されているということまでは知る由もなかった。
ゴジラのいる島=日本列島という構造なのだが、そこには琉球文化やアイヌ文化と弥生以降の日本文化との対比構造も当然含まれる。
更に、それはイギリス本土とアイルランドの関係にも似て、ケルトを辿ってヨーロッパの流れを知ろうとすることとも通じるような気もする。
イギリスの植民地経済政策のかなたに、極東と極西の辺境の共時性を感じるのだ。
とすると、ゴジラ伝説の残る大戸島はアラン島と相似形か?
有ラぬ島が大戸島で、オオトウ島とも読める大東島に大戸島のヒントが隠されているとしたら、これは単なる偶然ではないかもしれない。
事実、これからの旅で、思いもよらない事実が発覚するのだ。
さて、昭和29年の、香山滋原作のゴジラが東京に上陸した時、その歩みは東京大空襲のB29のルートそのままだったという。
アメリカが生み出したモンスター「キングコング」がアフリカのジャングルからやってきた文化に対する畏怖の念の象徴だったとすれば、「ゴジラ」は自らそのアメリカをなぞって擬態した、竜の化身だ。
竜は東洋を象徴すると共に、エジプトを中心とした地中海文明の象徴ともとれる。
つまり、地球上のあらゆる世界観の象徴としてのドラゴンなのだ。
となれば当然、原始宗教へとまなざしは向かう。
フフフフフフ…。
この先に何が…と、早々と小説の意図をバラしてしまいましたが、これも自らを追いこむ為!
そして、無謀ともいえる今回の旅が始まったのでした。
スタッフも家族も見当たらず、さぞかし怪しいゲーノージンの行動と映っていたにちがいありません。

事実、飛行機の中ではスチュワーデスさんに、那覇に着けばタクシーの運転手さんにと、行く先々で随分と旅の目的を訊かれました。
いちいち答えてたらタイヘンダー。
その度に、「半分アソビ、半分シゴト」とお茶を濁しておりました。
ともあれ、まずは那覇のハーバーヴューホテルにチェックイン。
国際通りまでは歩いて10分。シャツやら半パンツ、あれやこれやを買出しに。
東京ではあまり着ないブランド、PaPa’sで買い物をして(マドモアゼル・ノンノは20才くらいの時はTシャツを着てたけど)、そこの店員さんに沖縄料理の美味しい店を訊きました。
「ゆうなんぎい」は国際通りをちょいと入ったところ。
ゴーヤチャンプルー、ラフティー(豚の角煮)、島ラッキョウ(ウマイ!)、海ブドウ、ミミガー(豚の耳、お酢の具合が絶品)ビールは当然オリオンビール! そのあと泡盛…締めにソーキソバと、いきなり定番メニューで全開でした。
お店の人やお客さんたちとの会話もまた楽しいモノ…しかし、これらすべてが小説の財産となっていくのがわかるのです。
爆睡!
さて、明日はいよいよ島に上陸です。

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