橘井堂
2013年4月24日

フランシス・ベーコン展を観て

国立近代美術館のフランシス・ベーコン展に行った。
コメントも寄稿させていただいていたのだが、ようやく体験することができた。
一歩足を踏み入れ、最初に展示されている「人物像秀作U」と出くわした瞬間、その場から動くことができず総毛立った。
絵画を観て感じる衝撃!!・・・こんな経験は滅多にない。
ゾンネンシュターン、ポール・デルヴォー、バルテュス、大竹伸朗・・・質、量共に圧倒的で打ちのめされた絵画展はこれまでにもいくつもあったが、ベーコンは何かが違っていた。
舞台ではあれほど敏感に「観る」「観られる」行為の差異を観客と役者たちとを転倒させて感じ、そうでない「演じる」「観る」という契約が交わされた表現に対しては身の置き所がなかったはずなのに・・・。
ドラマや映画ではだから、そこにいかに機能させるかという「生ける物体」として身を置き、「見えざる観客」に向けてこの身を提示する・・・という、カメラのレンズを通して、「虚構の世界」と「現実と認識されている世界」をめくれ返させて、まるごと、「見えざる」という意味では「死者の眼差し」をも含めて作品を浮び上がらせる作業を続けることに喜びを感じてきたはずなのに・・・。
博物館や美術館に足を運ぶ時、あれほど警戒していた「契約」の眼差しをすんなりと受け入れて来ていたのではないか?

だから、この一歩は大きかった。
「今ごろかよっ!!!???」とノリツッコミしたくなるほどの、表現者の端くれとしての未熟さを露呈してしまった観視者のわたくし。
森山大道の写真や河井寛次郎の陶芸に触れた時も、そのことを強く感じていたはずなのに・・・。
この身体はすぐに怠けてしまう。

「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」「ベーコンに基づく身体」で構成したキュレーターの情熱もまた、ただならないものを感じさせ、この展示を成功させている。
あえて額縁にはめ込まれたガラスには観客の姿と眼差しも写し出される。
土方巽の舞踏講演「疱瘡譚」のフイルムや舞踏譜「ベーコン初稿」、ペーター・ヴェルツとウィリアム・フォーサイスによる映像インスタレーションなども展示され、どこまでも観客に自身の身体を感じさせる構成となっているので、展覧会場にいる間、観客は一方的にベーコンの作品を「観る」ということだけでは、その場から立ち去ることはできない。

展覧会場は適所に椅子も置かれ、作品との距離も近づき、離れて観ることもでき、味わいつくせる空間になっていたと思う。
ベーコン自身のインタビューフイルムやアトリエの写真も、単なる紹介には終わっておらず、そこにベーコンの肉体を感じさせた。

小泉八雲や古事記の朗読を通して感じて来た「時間」と「空間」、「生」と「死」のこと。
古くに記された言葉は、作者の死後の世界の「亡霊」たる、現在進行形で生きる「身体」を通して「音」となり、「過去」と「現在」を転倒させ続ける。
・・・そう感じていたはずなのに・・・迂闊に契約書にサインをしてはならない!!

ほどよく広い展覧会場の真ん中に立ち、作品を観まわし、額縁のガラスに映る自分の身体を、作品の中に描かれている幾重ものモチーフに透かしてみる。
そこを横切る観客は、ベーコンの筆先から産み落とされた作品のひとつとなって、またしても「時間」と「空間」をめくり返してわたくしを包み込む。
束の間の出会いと別れを、そこにいるすべての人たちが了解しあっている葬儀のような「時間」と「空間」そしてその「身体」。
わたくしは、そこで独り、瞬間、わたくしという役を演じ、わたくしという観客はそれを観ている。
フランシス・ベーコンには皮肉な笑いを浴びせられていたかもしれないけれど・・・。

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